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女性社長インタビュー

業歴5年以上の方をメインに、会社員時代のキャリアや独自のアイデアを活かしているスタートアップの方まで。
企業の裏話や事業継続の秘訣などを伺っています。

経営者である前に生涯、<br/>一プロデューサーでありたい!
Interview vol.92

経営者である前に生涯、
一プロデューサーでありたい!

株式会社映像探険社  浦西優美子 さん

http://eitan.co.jp/index.html

兵庫県西宮市出身。中学生の頃、向田邦子原作のNHKドラマ『阿修羅のごとく』などに感動。映像の仕事を志し早稲田大学第一文学部映画演劇専修へ。卒業後㈱映像館入社。同社解散により顧客を引継ぎ独立。2010年㈱映像探険社設立。オフは始めたばかりの英語の勉強や企画のための読書をしたりして過ごす。女性社長.netにひとこと。「同僚のいない女性社長同士、教え、教えられ知恵を共有しませんか!」

経営者である前に生涯、一プロデューサーでありたい!

映像制作会社でプロデュサーとして活躍する浦西さん。実力が問われる厳しい世界で頭角を現し、一直線に映像界をひた走ってきた。独立し、女性社長となった現在もプロデューサーであることにこだわり続けている。長年の経験で得たことや原動力についてお話を伺った。

映像に魅せられ四半世紀以上。飽きることなき面白き世界

15歳のときに観たテレビドラマが原点。普通の人の日常を映像で切り取り、役者の演技とカット割りの妙で、男女の機微や胸に秘めた想いまで映し出す映像の魅力に進路を定めたという浦西さん。映像一筋にひた走ってきた。映像館1社に在籍23年で独立。会社を立ち上げ今年で丸3年になる。「本来は飽き性」なのに「編集する度に面白くて新鮮」な映像制作に未だ魅了され続けている。バブル世代だが、浮かれ華やいだOLライフとは無縁の、実力が試される世界で一歩一歩経験を積み上げ、技術とビジネス感覚も磨いてきた。
長年、映像の仕事を続けて、駆け出しの頃には見えなかった本質が見えてきたという。例えば単純でつまらないと思っていた研修用のマニュアルビデオの作成で、保険会社の営業ウーマンに向けたものを制作。美人で優等生の女優を使う定説を破り、ポッチャリ系で少し不器用な役者を起用した。マニュアルの中に、断られてガックリ、心の中でガッツポーズ!という、日常のビビッドな気持ちを盛込むと「面白かった」「主人公と一緒にもう少しがんばってみようと思った」と現場から反響が寄せられた。どんな課題にも真摯に向き合い、映像の力を信じることで誰かの人生に影響を与えるものを作りたい―苦手だったマニュアル制作もいつしか「楽しみなジャンル」へとなっていた。

映像界に漕ぎ出す~人生の師との出会い

大学を卒業し、’85年広報PRの映像制作会社映像館へ就職した。多くの映像制作会社が“正社員を新卒からは採らない”時代。浦西さんが就職した映像館は新進気鋭の社長の元、「新卒を育てよう」をモットーに待遇を含め様々なことが男女平等だった。アシスタントからスタートし、新人ながらタフな経験を重ね1年目の終わりにはディレクターを任された。その直後、ちょっとした事件を起こす。今までとは違い自ら仕切る立場となり、居並ぶ大ベテランスタッフが恐ろしく、重圧で現場を無断欠勤してしまう。上司は「クビ」を宣告したが、社長は減給を課しただけ。「今、逃げたら君はこれからずっと逃げ続ける人生だよ」と続けるよう諭された。
プライベートでも思うところがあり、心機一転、東京転勤を願い出て他部署に異動が叶った。全国の繁盛店を自らリサーチし取材する自社メディアや、研修映画制作のプロジェクトにも参加するようになっていく。全国を飛び回り、多くの知己も得た。出会った監督や裏方の人達から身を持って学んだのは「人に気持ちよく仕事をしてもらう術」や「人との向き合い方」について。現場で接した本物の職人ほど新しいことを面白がって受け入れ、なんでもやる軽やかさがあった。「固定観念に縛られすぎないのがプロ」。浦西さんの仕事に対する座標軸にもなってもいる。

時代の荒波を乗り越え23年目の独立。

80年代末、衛星放送(ビジネス)が始まり商社等がこぞって参入した。浦西さんも伊藤忠商事などと合弁で作った商業向け専門TV局に出向。話題の新業態紹介から企業トップインタビューといった番組作成、そして編成までと、新たな経験を重ねた。しかし、10数年後、顧客数の伸び悩みから事業は不採算部門として存続見直しへ。ひと足先に戻った古巣・映像館で、今度はコーポレート・コミュニケーションの仕事を担当。大きな組織との仕事で、「最終顧客は発注担当者でなく、見る人。見る人=活用する現場にメッセージが届き、発注者が結果として評価されることが大切」と、さらなる学びや経験を積んだ。
その後バブルの崩壊。主要クライアントが総崩れし手痛い経験をするがどうにか乗り越えた。ところがリーマンショックの余波を受け、2009年会社が解散。準備期間を経て、2010年に独立した。様々な会社の浮き沈みを目の当たりにし、現場だけでなく経営的視点の大切さを痛感。どんぶり勘定にみられがちな映像制作業界だが、浦西さんの会社ではしっかりと1作ごとの目標原価率を掲げる。この原価率は元々は映像館の社長が作ったもので、入社1年目から仕込まれたが、経営側となり、その秀逸さにびっくり。今は、景気の浮き沈みに左右されやすい業界で、どうしたら映像館の轍を踏まず、安定的に持続できるかを模索中だ。

プロデューサーは天職。責任の大きさを引き受け、自社コンテンツもいつか必ず

独立早々、前社時代の代理店担当者から連絡があった。所在のわからない浦西さんを知人のTwitterにヒットしたのをきっかけに探しあててくれたのだ。「あなたに頼みたい!」と某メーカーのグローバルな理念浸透という大型案件を依頼された。うれしかった。クライアントは、金融中心に、メーカー、学校まで多岐にわたるがほとんどが紹介とリピート。商社系への出向など映像とは全く異なる世界で揉まれ、制作案件を通し様々な業界を見、肌で感じてきたからどの業界の人とでも瞬時に話ができるし、業界毎の課題がわかるのも強みの一つ。
好きだから続けてこられた映像の仕事。フリーに転向する人も多いこの業界で会社組織にこだわったのは“プロデューサー”という仕事が好きだから。企画を捻り出し、仕事を作り、スタッフを統括して目的にあった成果物を出す。組織の力というものにも見果てぬ夢がある。当初は、値づけや利益の再分配など様々なことを自分ひとりで決定する社長の役割に驚いたが、自身の付加価値代が存在理由と考える。社長として他人の人生に深く関わってしまうことに身が引きしまるが、まずは足元固め。そして、いつかは、次世代がよりよく生きるヒントになるようなオリジナル・コンテンツを作るという夢も諦めない。