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女性社長インタビュー

業歴5年以上の方をメインに、会社員時代のキャリアや独自のアイデアを活かしているスタートアップの方まで。
企業の裏話や事業継続の秘訣などを伺っています。

理想の学校づくりに奮闘する<br/>小林さんと仲間たち(前編)  
Interview vol.50(前編)   

理想の学校づくりに奮闘する
小林さんと仲間たち(前編)  

軽井沢インターナショナルスクール設立準備財団 代表理事 小林 りんさん

http://isak.jp/isak/

高校1年の時、自分の力を試すため中退し、カナダの全寮制高校に留学。そこで、日本の暗記型学習とは全く異なる授業形態、試験を経験。1998年に東京大学経済学部を卒業、モルガン・スタンレー投資銀行部門やベンチャー企業経営などを経て、2003年夏に政府系援助機関へ転職。2005年に米スタンフォード大学国際教育政策修士号を取得。2006年夏には国連機関で働くべくマニラへ単身赴任し、2008年8月に帰国。国際協力銀行で円借款業務を担当、その後、国連児童基金にてフィリピンで貧困層の非公式教育に携わる。2009年4月より現職。

理想の学校づくりに奮闘する小林さんと仲間たち(前編)

2013年の開校に向け、設立準備財団代表理事として奮闘中の小林りんさんに、ご自身の経歴や軽井沢インターナショナルスクールにかける思いなどたくさんのお話を伺った。地震の影響もあり、今回は電話での取材となった。現在、昨年に引き続き2度目となるサマーキャンプの参加者を募集中。

教育の分野からアジアの未来に貢献したい

小林さんは、16歳にして都内の進学高校を中退し、カナダの全寮制の高校へ留学という大きな決断をした。国立大学に進学する生徒が多い学校であったこともあり、苦手科目の克服に焦点があてられがちな現状に疑問を感じたという。このカナダでの経験が今の小林さんの原体験だ。カナダでは多様なバックグラウンドを持つ人々と出会った。非常に優秀なメキシコ人の同級生の兄弟は中卒だった。優秀な子供が充分な教育を受けることが出来ない現状を初めて目の当たりにし、小林さんは衝撃を受けた。
帰国後、大学で開発経済学のゼミに入り「将来、開発に携わる者は現場を見るべき」という担当教授の中西徹氏の勧めもありフィリピンのスラムにホームステイする。フィリピンの学校は無料であるにも関わらず、1日に数十円のお金を稼がせるために親は学校に通わせようとしない。しかし子供達はどんな貧困の中にあっても教育を求めていた。教育が貧困を抜け出す唯一の方法であることを知っているからだ。
大学卒業後、政府系機関に所属するか外資系金融機関に就職するか迷ったが、まず自分の労働力としての価値を試したいという思いから後者への就職を決めた。その後、IPO(新規株式公開)の部門にいた縁で知り合った㈱ラクーン(アパレル・雑貨の流通効率化。現在マザーズ上場)に入り、右腕となって会社の拡大に貢献。3年で単年度黒字を実現し、2003年に当時のJBIC国際協力銀行(現JICA)に転職。働きながら大学院受験勉強をし、合格を機に退職。2005年、米スタンフォード大学国際教育政策修士号を取得。2006年に国連児童基金(ユニセフ)に入り、いよいよ念願の教育を通じた国際協力の分野に足を踏み入れる。

アジアの未来を担うリーダーを。学校設立に至った谷家さんとの出会い

小林さんはフィリピンで日々支援する喜びを感じながらも広がる貧富の格差を実感していた。開発途上国の抱える教育問題は2つあった。貧困層教育と自国のために働くリーダー層の欠如である。大半の援助資金は前者にあてられるが、それだけでは根本の問題解決にはならないという思いを強くしていく。小林さんは、それまで重視されてこなかった自国の発展のために力を尽くすリーダー層の育成の必要性を心から感じるようになっていた。フィリピンの公用語は英語だ。優秀な人材は産業の無いフィリピンから国外へ出て行き、フィリピンのGDPの13%超が仕送りで成り立つ。しかし既得権益にしがみつく政界や実業界がその現状に危機感を持っているとは思えなかった。開発には上から引っ張る力と下から落ちないように救う力の両輪が必要なのだ。
フラストレーションを抱えている頃、友人を介して谷家さんと出会う。漠然と思いを語るうちに、谷家さんから「実は、僕は次世代のアジアを担う人材を輩出できるような学校をつくりたいとずっと考えていた。一緒にやらないか」と誘われる。こうして谷家さんの考えていた学校構想の実現を小林さんが託される形で、今回のプロジェクトが生まれた。谷家さんとの出会いからユニセフを辞し帰国を決断するまでに要した時間はおよそ1年。2008年8月の帰国と同時にプロジェクトをスタートさせた。その後、半年以上の時間をかけ財団発足メンバーを募り、2009年4月、谷家さんを共同代表理事として軽井沢インターナショナルスクール設立準備財団が発足する。

白紙からの学校づくり。保護者、経営者、名門校教師の思いが一つに

軽井沢インターナショナルスクールの持つ引力で事態はとんとん拍子に進む。和の精神を重視しながら多様性の中で総合的に活躍できる人材の育成を目指す学校は多くの著名人の賛同を得る。
自身が親として、日本の教育や富裕層の集まりであるインターナショナルスクールに疑問を持ち、もっとハングリー精神を持ったたくましい人間へと成長することのできる環境を望んでいた人、これからのアジアの時代を担う存在となるのにふさわしく日本人としてのアイデンティティを持ちアジアにフォーカスした教育の重要性を感じていた人。躍進するアジア諸国のなかでの日本の立ち位置に懸念を感じていた企業のトップなど多くの人が学校の理念に共感した。日本は、文化、治安、環境など諸外国から評価を受けているものがたくさんある。これからは経済大国日本の看板を下ろし、ヨーロッパのスイス、アジアの日本となるように教育産業を発展させ、日本のユニークな立ち位置を確立すべき時であるのだ。
軽井沢インターナショナルスクールの持つパワーは国境を超える。小林さん達の考える理想の学校像に共感し、世界中の名門校のトップクラスの教師陣が自ら集まってきた。これは小林さんも予想していないことだった。歴史ある名門校では、変革を起こしにくい。志ある教育者にとって、カリキュラムを一から作り上げることのできる環境は生涯の夢だった。他にも役所への申請手続きや財務面、土地探しでも縁を感じる出会いがいくつもあり、開校に向け設立準備は順調に進む。

富裕層のためだけではない真の多様性を実現したインターナショナルスクールを

軽井沢インターナショナルスクールがスイスやアメリカの全寮制スクールと異なるのは、そのリーダーシップ教育やデザイン力育成の在り方に加え、生徒の多様性だ。アジア全域から国籍だけでなく社会経済的にも多様なバックグラウンドを持つ生徒を受け入れる。  インターナショナルスクールは富裕層の集まりになることが多いが、それは社会の縮図ではない。グローバルな社会においてリーダーシップを発揮するためには、国籍や宗教、家庭環境など真に多様な集合体の中での相互理解、尊重が必要となる。貧富の差無く多様な生徒を受け入れるため、生徒の30~50%が受けることのできる奨学金制度を設ける。
昨年のサマーキャンプにはフィリピンから3人の生徒が参加した。皆、気さくですぐに友達の輪の中心的存在となった。すると日本人の子供達が自らタガログ語を学びたいと言い出した。本当の意味での異文化理解、尊敬はこうして生まれるのだ。一方、「夢」がテーマのディスカッションで、「サッカー選手になりたい!」「社長になりたい!」と発言していた日本の子供達の中で「ビルマの民主化に一生を捧げたい」と話すミャンマーの13歳の子。その子はアウンサンスーチー氏に感銘を受け、親に頼んで改名していた。その発言は日本の子供達に大きな衝撃を与えたが、ミャンマーとビルマの違いから一つずつその国のことを知ろうという興味の始まりとなった。
(後編へ続く)

(インタビュー/ライティング 杉田屋 まりえ)