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女性社長インタビュー

業歴5年以上の方をメインに、会社員時代のキャリアや独自のアイデアを活かしているスタートアップの方まで。
企業の裏話や事業継続の秘訣などを伺っています。

とにかく中国で働きたい。<br/>無我夢中の13年間。
Interview vol.35【前編】

とにかく中国で働きたい。
無我夢中の13年間。

北京世研伝媒広告有限公司 安田玲美さん

http://www.cjcnet.cn/

京世研伝媒広告有限公司 総経理。 雑誌『中国日企』と『中日伝播』を発行と中国のリサーチ業務を行う。 また、トゥーシューズの製作を行う北京AngelAngel服装服飾有限公司総経理でもある。 1972年、東京生まれ、小・中・高を岩手県で過ごす。1994年、大東文化大学外国語学 部中国語学科卒業。1996年まで北京留学。北京で経営者として仕事を始めて13年半 となる。中国メディアと中国進出日本企業のイメージ調査および研究、中国と日本の 相互理解を高める架け橋として活躍中。

とにかく中国で働きたい。無我夢中の13年間。

明日から北京オリンピックが始まる。目覚しい発展を続け、オリンピック開催に至った中国。日本人女性起業家の安田玲美さんは、その中国に幼い頃から憧れ、実際に中国と関わりを持って13年の歴史を持つ。安田さんに中国でのビジネス事情や女性の活躍、そして自分自身の中国での道のりを伺った。 前編では中国事情を中心に紹介する。

中国人は変化に強い。よく言えば臨機応変・寛容な人々です。

もうすぐ北京オリンピックが開催されます。開催まであと10日ほどですが・・・(取材時点)。まだ現地の方々は、「実際にはオリンピックは実施されないかも」と思っているのかもしれません(笑)。実際、グローバルなアーティストのコンサートなども当日キャンセルは珍しいことではない。だから興行チケットも当日予約で当日にチケットが到着する仕組みが発達していたりするんです。中国は、近代だけでなく3000年の歴史も含めて大きな体制変化を経験した記憶が残っています。根本の発想にある「物事が始まってから考えよう」という傾向が非常に強い。「事前準備をしても変更の可能性があるから」と。だから、変化に強い。よく言えば臨機応変な人種です。 仕事で北京オリンピックの関心度調査を15都市で定期的に行ってきました。大半が興味を持っており、自国開催に誇りを持っているはずです。だけど、まだ開催を信じていない感じがします。きっと、開催が始まったら、いきなり盛り上がり始めますよ。
ビジネスシーンでも同様です。私自身もビジネス経験がない中、中国に飛び込んだ13年前はその性格に助けられたこともありますしね。だけど、たまにイライラすることもありますけど(笑)

イベントボランティアをきっかけにリサーチ業に関わる。

現在は、日本と中国の架け橋として、「中国日企」を運営しています。中国に拠点をおいて約13年。現在は5社の総経理として頑張っています。中国では、各事業目的ごとに会社設立の必要があるんです。なので、日本であれ1社で行う4事業部門が、中国では「リサーチ」「情報配信」「広告」「企業PR」と、それぞれ4つの会社登記が必要です。
私は他にも中国で仕事をする縁となった「トゥーシューズ」製作の会社も経営しています。中国日企では、30名のスタッフを抱え、情報配信とリサーチ業務を主な仕事にしています。情報配信部門では、メディア関係・政府機関・中国企業・外国企業上位500社・大学への2万部の媒体を発行しています。中国へ進出している日本企業は約2万社。中日間の理解を高めるのが目的で日本企業の情報を中心に「中国の日本企業(中国日企」、「中日メディア(中日伝播)」を発行し提供しています。この3年間は投資だと思って、認知を高めるため広告を入れずに雑誌の発行を月刊誌、隔月誌と行ってきました。来年からいよいよ一般発売を行っていく予定で着々と準備を進めています。リサーチでは、日本企業からの依頼を受けてリサーチを行っています。3ヶ月に1回は日本に帰国をしてクライアント企業との打ち合わせを行っています。
ですが、もともと楽にこの道に進んだわけではありません。幼少の頃の中国への憧れ、とにかく中国で働きたいという想いと人のご縁でここまで来ています。

中国への憧れは幼少から。実際に近づいたのは大卒後。

幼少の頃から中国に夢中でした。私が生まれた年は、日中国交正常化の年1972年。小さい頃は東京で育ち、上野動物園のパンダ、カンカン・ランランに夢中でした。パンダの前から動かず両親を困らせていたようです。また1981年(当時9歳)には、中国残留孤児が帰国してニュースで大々的に報道をされていました。パンダの印象も含めて中国に対する憧れが深まった。母も多くの近代史を読み聞かせてくれました。母自身、子供にはグローバルな人材になってほしいと思っていたようです。
はありませんでした。小学校に入り、岩手に移り住んだんです。とにかく中国に関わることがしたいと思ってもなかなかない。本当は少林寺拳法がやりたかったんですが、教えてもらえる場所がなかったので、武道のひとつ、剣道にはまりました。中高時代は、「バイク・バイト・バンド」の3Bに夢中。車酔いが原因で酔いがないバイクが好きになりました。高校時代もレース場で短距離をぶっ飛ばしたりして・・・。バンド活動も好きでした。好きなバイク・バンドをやるために、バイトで稼ぐ。そんな10代をすごしました。とにかく好きなことに突っ走るのが私の特徴。だから幼少からのこだわりで、大学選びの基準は「中国」。自然に中国語学科がある大東文化大学に進学しました。

中国語は使ってなんぼ!勉強には身が入らず、いざ中国へ。

大学時代も苦学生だったので、アルバイトばかりしていました。中国語学科に進んで、せっかく中国にはじめて触れられる機会。ですが、言語学には興味が持てず、あまり勉強はしていませんでした(笑)。とにかく学費稼ぎとお金を貯める日々。1年次、新聞奨学生で月10万+塾の先生とコンビニで合わせて月25万くらいはもらってましたね。新聞奨学生も大好きなバイクに乗れるので楽しかった。今振り返ると大学に行く必要がなかった気がします。ですが、高校卒業時に「大学に行かない」という選択肢を知らなかったんです。
だから、大学卒業後は、「すぐ中国に行こう」と決めていました。中国初上陸は1994年9月。大学が9月始まりなので北京大学の大学院を目指して語学留学のため、まず足を踏み入れました。しかし、やはり学問に興味が持てないんですよ(笑)。大学院の研究室に行くと、書物に埋もれている研究生を見て・・・。私は中国でコミュニケーションをとりたい!と即大学院は諦めて、これまた中国で語学学校は午前中通って午後から日本語を教える仕事、ホテルのゲストサービスなどのアルバイトに励みました。とにかくアルバイトは楽しかったです。中国と触れている感覚がありよかったです。2年間勉強し、中国語もそこそこできるようになったので、外交官になろうと帰国しました。