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女性社長インタビュー

業歴5年以上の方をメインに、会社員時代のキャリアや独自のアイデアを活かしているスタートアップの方まで。
企業の裏話や事業継続の秘訣などを伺っています。

子供の頃から得意だった、<br/>洋裁が海を渡る
Interview vol.26【前編】

子供の頃から得意だった、
洋裁が海を渡る

YUKIKO SATO NEW YORK さとうゆきこさん

http://yukikosato.com/wp/

1967年生まれ。宮城県出身。女性美術大学卒業後、6年間テレビ業界でスタイリストを務める。1994年に渡米し、ニューヨークで映画のコスチューム・デザイナーとして働き始める。 その活動と並行して、2000年に手さげバッグ会社YUKIKO SATO NEW YORKを設立し、バッグや小物の製造・販売をスタート。現在もNYでデザイナーとして活躍中。※写真提供:女子美同窓会

子供の頃から得意だった、洋裁が海を渡る

ニューヨークで活躍するさとうゆきこさん。日本でスタイリストとして活躍後渡米。スタイリストとして活躍しながら7年の期間を経て会社設立。異国の地でキャリアを積み上げ人脈を紡ぐ。全世界の流行の発信源ニューヨークでの活躍の様子と起業までの軌跡を聞いた ※前後編の2回に分けてお届けします。

子供のころの夢は、ファッションデザイナー、芸能人。

子供の頃から母が洋服を作ってくれた残り生地を使ってかばんを作ってくれていました。その影響で、幼稚園の頃から自分でも人形の着せ替え用の洋服を作るように。だから幼い頃からの夢は「ファッションデザイナー」。中高時代もティーン向け洋裁雑誌(型紙つき)などを買っては実際に作っていました。そのうち芸能人にも憧れが(笑)。テレビで見る東京の芸能人はハイセンス。仙台育ちの私には衝撃的でした。芸能人になりたい!と思っていました。なので進学先選びは、「ファッション」関係、そして「東京」が軸。ファッション関係は専門学校が非常に充実しています。ですが、両親から「大卒資格があれば進路を変えてもつぶしがきくから」と言われ女子美術大学の洋服デザイン中心の衣服デザイン科に進学。両親が言う通り、志望が変わりました(笑)。デザイナー志望から「スタイリスト」へ。女子美にはデザイナーさんのご子息が多く通っており、その時点で「デザイナーの現実」を教えられました。作りたいものを作るのでなく、コストなども加味して服を作る仕事、という現実を。だったら、昔からの夢である「芸能人」に会えて、しかも人がデザインしたものを自分が自由にコーディネートできるスタイリストになろうと決めたんですね。

スタイリストとして6年活躍後、ニューヨークへ

実はスタイリストになるのも大変なんですよ。就職はベビーブーム世代なのでスタイリストも人気があり激戦でした。競争率100倍。しかも月給3-5万と安い。耐えられる人が少ない業界です。でも私にとっては芸能人として売れるより、競争率100倍なら簡単じゃないか。と思えたんです。修行も覚悟の上でした。月給10万円とスタイリストの卵としては比較的割がいい広告専門のスタイリスト事務所にまず就職。1年後、テレビ番組・映画のスタイリスト事務所に転職しました。1年とはいえ経験も積んでいたので経験者としてチーフで採用され、待遇も少しましでした。スタイリストとして活躍するうちに独立を視野に入れたんです。もともと父は経営者。独立心が強かったんですね。しかしスタイリストの世界は狭いので円満独立は難しい。
実は、有名アーティスト杏里さんの世界ツアーのスタイリングをする機会に恵まれた時、視界が開けたんです。ツアーには、アメリカ人バックダンサーなどがおり、彼らの仕事スタイルに惹かれたんです。アメリカのプロは、仕事内容・ギャラが明確なんです。日本は当時ギャラが仕事後に決まることも多々あり、こんなはずじゃない、という仕事も結構ありました。これはアメリカで独立したらいいんじゃないか。と思い、真剣に英語の勉強をし実際にニューヨークへ。

映画の仕事をしながら美容院で経営を学びグリーンカードを獲得

1994年、アメリカに渡った当初は、インディーズ映画に特化したスタイリストを目指していました。日本での仕事も、キャラクター設定や時代背景を考慮したスタイリングを考えるのが楽しかったから。映画といえばハリウッド。ハリウッドを最初は目指していました。尊敬するデザイナーの石岡 瑛子 さん(アカデミー賞衣装デザイン賞受賞)が「ハリウッドよりニューヨークの方がクリエイティブな人が多い」、という記事で語っているのを読み、単身ニューヨークに飛びました。アメリカに知人は一人もいませんでしたが(笑)。
まずニューヨーク大学(NYU)付属の語学学校に入学。実はNYUはフィルム(映画)科が有名でルームメイトがそのフィルム科在籍。彼女そして他のクラスメイトから紹介を受け、いくつか仕事をしました。メジャーではなくインディーズ中心。仕事が少ないので、平行して日系ヘアサロンのマネージャー、社長の経営補佐をしていました。ここでは、社長から経営を学ばせていただいたり、グリーンカード取得援助をしていただいたりと本当によくしていただきました。グリーンカード取得には大統領の政権方針の変更などで伸びてしまい、結局渡米6年後に取得。その後すぐに会社設立をしたのが2000年です。
次週、後編で起業後のストーリーをお届けします。